[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。
だから、昔話のおじいさんは山へ芝生を刈りに行っているんだと小さい頃から思ってました。
母さんにそのことを話したところ、とんでもなく笑われましたとも。
「おじいさんは山に行って薪を集めるために、芝生を刈るんかい!」とそれはもう鋭いツッコミを。
あれなんですね、
芝と柴の違い。
わー、なんとも恥ずかしいなぁ。
でも、きっと私のように勘違いをそのまま覚えてしまった人っていると思うのです!私が唯一ではないはず!
とかなんとか言ってみる。
――とどうでもいいことを言いましたが、フーラス6-2更新しました。←遅い
フーラス6章に入りました。ちなみに、まだ1幕の半分もいってません…
こんな更新速度で、「春休みのうちに1幕終わらせる!」って言ってたあの時の自分が信じられませんね、ほんと。
シリアスな場面はどうしても言葉がかたくなりがちです。
私が小説を書くことで注意しているのは、やわらかい文章を書くということです。評論文とか、大学のレポートで書くような『大人』な文章ではなく、小学校卒業レベルで読めるような文章なのです。とかなんとか言いながら、私の場合、小説を書いている影響で、レポートでもやわらかな文体になってしまうんですが。
でも、近代文学の先生が私のレポートに
「春野さんは文章がリズミカルですね。大事にして下さい」
と最後のコメントに付け加えるように書いてくれたのが、ものすんごく嬉しかったりするんです。
私自身、返却されたレポート読み返してみたら、なんだかひどくまとまりのない文章だなって思うのに、その先生は私の意見に真面目にコメント残してくれて、それでAAの成績付けてくれたりするんですよ!
ちなみに、この間志賀直哉うんぬん言ってた授業がその先生の授業だったりします。
あ、話がそれました。
今日のサッカーの話してたんでしたっけ。(←オイ)
……つまり、私はもっとやわらかい文章にしたいんです。それなのに、後で更新したページを読んでみると、あまりにも説明的な文章すぎて泣けてくるんです。
自分らしい文章を確立するには、やっぱりもっとたくさんの文を書いていかなきゃいけないだって思います。まだまだ勉強することはたくさんです。
今日、11時から対パラグアイ戦ですねっ!
ちなみに、先日のデンマーク戦は結局観られませんでした…だって、深夜なんだもの…orz
サッカーのルールは全然知りません。
じゃあ、どうしてワールドカップに私が注目してるのかって言うと、それがワールドカップだからなんです。
あー…答えになってませんね。
私に言わせれば、Jリーグだろうがワールドカップだろうが、たかが「サッカーの試合」なんです。(あぁ、サッカーファンに怒られそうな…汗)
そんな「たかがサッカーの試合」であるワールドカップにどうして私が注目するのか。
前回、時差を感じると世界は広いことを知る、とか何とか書きました。
でも、今って世界中の多くの国がワールドカップっていうたったひとつのことに注目してるでしょう?例えば、この間の日本とデンマークの試合にしても、全国の日本人と、それから世界に散らばった日本人と、デンマークに住む人々ともちろん日本国内に住むデンマーク人と、それからその他、その試合に注目する世界中の人々と、皆が同時刻に全世界中で一喜一憂してるんですよ。
情報社会なんだから、そんなことできて当たり前かもしれませんが、でも、なんだかそれってすごいことだと思いませんか?情報網が発達してなかったら、そんなこと、絶対にあり得ないことだったわけです。
そう考えると、世界はとても広くてそれでいてとても狭いんだって気付かされます。
同じ4年に1回世界で開催されるオリンピックでも、オリンピックの場合はいろんな競技があるからワールドカップとは盛り上がりが違うと思います。
今まで遠い世界だと思ってた人たちと、同じ目的で同じ時間を過ごせる。そう思わせてくれるきっかけを、ワールドカップが作ってくれるから、サッカーを知らない私でも好きになれるんです。
観たい…!
でも、朝早すぎてそれまで待ってると確実に寝るし、寝たら絶対そんな時間に起きられないし…
うぅー、でもやっぱりリアルタイムで観たいものです。
時差を知ると、いかに世界が広いかってわかります。
でもでも、よくよく考えたら、3時頃って新聞配達の人はすでにお仕事はじめちゃったりしてるんですよね。わー、すごいなぁ。わたしには……無理だぁ…
以下お返事です(●´∀`)ノ
続き書けない書けないって、ぐだぐだ悩んでるんだったら、まず何でもいいから書いてみろって自分に言い聞かせてようやくできました。
5-13更新しました。
とりあえず書かないと先に進まないんですよねー…。
いくら頭の中で、これはだめだとかこうしたらいいとか構想練ってても、頭の中で断片的にイメージとして考えるのと、実際に文字に表すのとでは印象が変わってくるし、また別の視点ってのも出てくるんです。時間軸に沿って順序立てて書いていくと、いろいろと考えなおさなきゃいけないところもあるんだな、って。
ところで、
一人称でひとのイメージってがらっと変わるもんですよね(*´Д`)
私は登場人物の一人称について、小説を書く作者として読者に読みやすいようにそれを統一しようとか、そんなことは思ってません。実際、時と場合において使い分けるものだと考えているからです。
ただもちろん、「俺」って言っていた人物が何の前触れもなく突然「私」なんて言い変えたりすることはありませんよ。もし変わっていたとしたら、それはその人物の心情が何か変化した時です。
――ってなんかもう、そんな当たり前のことわかってるよって話なんですが、ねっ!
一人称については、学校の国語の授業でやってると思いますし!
ちなみに『山月記』なんて有名どころですね。
でも、今週からまた必死にワード画面に向かおうと思います(*´Д`)
早くしないとまた大学の試験・レポート地獄に追われる毎日がやってきそうですし…orz